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今更ながら白鵬の審判部批判について~その2~


前回のエントリーの続きです。


このたびの騒動は、白鵬自身がバラエティ番組で謝罪するかたちで、
いちおうの決着を見たようです。

ただそれでも私は個人的に、まだ釈然としていません。
誰に謝ったのか分からない、
何を謝ったのか分からないといった話ではなく。

謝罪うんぬん以前に、
白鵬は先に述べたような日本人の好む、
「抑制の美」あるいは「謙譲の美」といったものを、
あまり理解してくれていないように常々感じるからです。

具体的にいえば、千秋楽の優勝インタビュー。
回数を重ね、記録を伸ばすにつれ、ますます饒舌になっている。

独断偏見を承知で書きますが、お相撲さんがあそこまでおしゃべりで良いものでしょうか。
私は正直、疑問に思います。
トーク番組ならともかく、優勝インタビューという公の場で、
力士があんなにペラペラしゃべるべきではない。

(幸い文字に起こしてくださっている方がおられるので、リンクを貼らせていただきます。
例として昨年9月場所11月場所、今年1月場所のインタビュー全文)

さらに私が違和感を感じるのは、口数ばかりではありません。
発言の内容も、どうかと思うものが少なくない。

観客に大鵬さんへの黙祷を求めたことがありましたが、
いかに自分が尊敬する大先輩とはいえ、やり過ぎでした。

「モンゴルから来た62キロの少年がここまでになった」という言葉も、
自分を誇りに思うのは結構ですが、内に秘めておけばいい事。

マイクを通じて自分の奥さんを褒めるなどというのも、
うち帰ってからやれよと言いたい。

いちいち引っかかるのも馬鹿げていますが、
大相撲の横綱としては何とも頼りない印象があります。

土俵上での強さは絶対的なだけに、その言葉の弱さは、
著しいコントラストを描いて聞くものを失望させます。


ただ、一方的に白鵬を断罪するのは、私にもためらわれる。

というのは、彼の過剰なまでのコメントには、
自分に反感を抱く一部の日本人(そこにはも含まれますが)に対し、
彼なりに歩み寄ろうとするような、
時には許しを請うような思いも感じられるからです。

私のような頑迷な相撲ファンの、白鵬に対する気持ちは複雑です。
よその国から来た青年が、いちから日本語を覚え、
新たな文化慣習に身を染め、頂点に立った。
応援してやりたい気持ちは当然ある。
しかし、相撲史に残る記録を次々塗り替えていくとまでなると、
心のどこかで抵抗を覚えてしまう。
どうにか日本人に阻止してほしいと願ってしまう。

同じような気持ちを持っている人は少なくないようで。
それが露骨に表れたのが、おととし九州場所の14日目。
稀勢の里が白鵬を破ったときの「万歳事件」だったのでしょう。

自分に向けられる、一部の偏狭な日本人の敵意。
どうにかなだめられないものか。
その努力の一環が、あのインタビューでの多弁な受け答えのように思います。

先にあげた大鵬さんへの黙祷。
一力士としては出過ぎた真似でした。
しかし見方によっては、
「日本人の皆さんと同様に、ワタクシも大鵬さんを敬愛しております」という、
白鵬流のメッセージとも取れる。

事あるごとに双葉山の名を口にするのも、
実際彼自身尊敬しているのは分かりますが、同時に、
「日本の皆さんが角聖と呼ぶ方を、ワタクシも仰ぎ見ております」
どこかそんな含意があるのではないでしょうか。

昨年九州場所では明治天皇への言及もありました。
現代の日本人がみな、外国人から明治天皇を讃えられてそれほど喜ぶかどうか。
正直疑問ではあります。
ただ白鵬が「日本の皆さんが敬う天皇家を、ワタクシも崇拝しておるのです」
そう伝えたいことだけは、よく分かりました。


しかし前回のエントリーで述べたように、
日本人の多くが国技大相撲の力士に望むのは、
寡黙な、古武士のような振る舞いです。

白鵬は日本人に愛されようと、懸命にリップサービスに励みます。
ところが励めば励むほど、彼は日本人好みの力士らしさを失ってゆく。
天下無双の横綱が、まるで舌先三寸の営業マンのような、軽いものに見えてしまう。
努力とは裏腹に、偏屈な日本人の心はますます彼から遠ざかっていく。

そんな皮肉な状況が、ここ数年の白鵬を取り巻いているように思えてなりません。


人間孤独を味わうと、どうしてもこの世ならぬものに心を引かれます。
昨年九州場所、大鵬に並ぶ32回目の優勝を果たしたときのインタビューに、
こんなフレーズがありました。

「この国の魂と、相撲の神様が認めてくれたから、この結果があると思います」

大仰でキザなセリフだな、と白鵬嫌いの私は当時感じました。
しかし今になって彼を取り巻く状況を考えると、分からなくもないような。

異国の地へ裸一貫やってきて、
番付の頂点を、さらにその先をめざし懸命に取り組んできた。
だが、自分の活躍を日本人皆が認めてくれるわけでは決してない。
オレのやっていることは正しいのだろうか。

そう自問自答する中、彼が拠りどころとして見出したもの。
それが、目の前に生きる現実の日本人ではなく、
その向こう側にあるより大きなものだったのではないでしょうか。

日本人一人一人は必ずしもオレを応援してくれるわけではない。
しかしその根本にあるこの国の魂、あるいは国技相撲の神様、
それはきっと自分の活躍を喜んでくれるはずだ。
そう自らに言い聞かせながら、彼は土俵に臨んでいたのかも知れない。


逆にいえば、白鵬はそこまで追い込まれていた。

せっかくの偉業に自ら泥を塗った今回の舌禍事件。
傍で見る者には一見不可解な言動でした。

されど、裏にはこうした、文字通り神にもすがる思いの白鵬自身の孤独があった。
そこに記録の達成が引き金となって、積もり積もったものが爆発したのでしょう。


しつこいようですが、この件についてはもうちょっと書きます。
また稿を改めて。
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今更ながら白鵬の審判部批判について~その1~


白鵬の審判批判問題。
いささか時期を逸したエントリーではありますが、
自分なりに思うことが多々あったので記しておきます。

今回の白鵬の発言は、相撲ファン以外の耳目も集め、
ある種社会的な騒動にもなりました。
どうしてここまで盛り上がってしまったのか。

まずは発端となった白鵬と記者との一問一答。

疑惑の相撲が1つある/白鵬の批判発言ニッカン

大相撲初場所で史上最多33度目優勝を全勝で飾った横綱白鵬(29=宮城野)が26日、審判部を痛烈批判した。東京都墨田区の宮城野部屋で行われた一夜明け会見で、取り直しになった13日目の稀勢の里戦について言及。納得いかない様子で「子供が見ても分かる。なぜ取り直しになったのか。2度とないようにやってもらいたい」などと、異例の注文を付けた。

<白鵬の審判部批判発言>

 -大記録を全勝で決めた

白鵬 疑惑の相撲が1つあるんですよね。これは、いかがなものかと。13日目ですね。みなさん、知ってるでしょう。勝ってる相撲ですよ、1番目は。その時は分からなかったけど、帰ってビデオを見たけど。子供が見ても分かるような相撲なんでね。なぜ、取り直しになったのか。あの大鵬親方が、45連勝して勝った相撲が、負けになった。それからビデオ判定ができた。なのに、ビデオ判定は何をしたのか。本当に悲しい思いでした。ビデオ判定があれば、大鵬親方のあの負けもなかったかも。連勝記録も続いていたかも。もう少し緊張感をもってやってもらいたい。負けてたら(自分の)優勝記録が止まったかもしれない。勝てたから良かったけど。

 -優勝した後も集中して相撲を取れたか

白鵬 ビデオ判定の方も、元お相撲さんでしょう。取り直しの重みも一番分かっているはずじゃないの。簡単に取り直しと言うのはやめてくれと思いながら、その日夜、ビデオで見たんですよ。こんなの2度とないようにやってもらいたい。そう思ってやってましたけどね。本当に肌の色は関係ないんだよね。この土俵に上がって、まげ結ってることになれば日本の魂なんですよ。みんな同じ人間です。

 -記念の優勝が全勝になったが

白鵬 13日目は苦労しました。(稀勢の里と体が)重なって落ちましたから、よく分からなかった。13日目に決まったのも久しぶりで帰った後、ビデオを見た。悲しかった。盛り上がりどうこうじゃない。こっちは命を懸けてやってますからね。

 [2015年1月27日8時54分 紙面から]


もともと大相撲に限らず多くのスポーツでは、
審判を競技者が批判するのは御法度とされています。

最近でもサッカーの本田圭佑選手が、アジアカップで試合終了後審判を批判。
罰金5000ドルの処分を受けました。
野球でもメジャーリーグなどは審判の判定は絶対です。
イチローがこの禁忌を破って物議を醸したこともありました。

ただ程度の差というものはあって。
競技場を離れた会見の場などで、大っぴらに批判する。
これはどのスポーツでもタブーです。

しかし野球やサッカーでは、現場でプレーの最中、
ジャッジに対し軽く疑問を呈したり、
何がいけなかったのか確認するぐらいは大目に見られている。

さらに言えば。
判定に激昂して詰め寄るような真似をすれば、
野球でもサッカーでも即退場ではあります。

それでも選手はバットを放ったり、ユニフォームを脱ぐなどして、
観客へ不服の意思を示しつつ競技場を去っていきます。
それは観る側にとってはおなじみの光景で、
ジャッジによっては「まあ仕方ないな」という程度の振る舞いに映るものです。

ところが大相撲は違う。

土俵上で行司に向かって問いただしたり、
審判に自ら確認するような力士はいません。
まして判定を不服として大声で観客に訴える力士など皆無。
マゲやマワシを解いてアピールするお相撲さんも見たことがない。

もしそんな力士がいたら…まあ面白いかもしれませんけど、
相撲を見慣れた人間は目を疑うでしょう。

それだけジャッジの絶対性が確立されている競技において、
他の競技でさえ許されていない公の場での批判。
これを第一人者が禁をやぶって敢行してしまった。
今回の件はそういうことなのだと思います。


なぜこうも、我々日本人は野球やサッカーに対するときと、
大相撲に対するときと、観る目が違うのでしょうか。

それはやはり、国技を名乗る以上は力士一人一人に、
日本人の美徳を体現してほしいと願うからに他なりません。

謙譲の美、あるいは抑制の美。

おのれの持てる力を精一杯発揮したそのあとは、
他者の決める判定に例え不満があろうとも、
文句ひとつ言わず静かに土俵を去ってゆく。

そうした態度を良しとする心性があるからこそ、
日本人は大相撲を観ているとどこか安心する。
時に退屈ではあっても、何かホッとする。

毎日職場で学校で、オレがオレがの日常を過ごす中。
テレビをつければ、あるいは本場所や巡業に出向けば、
今どきちょんまげを結った人たちが、
古武士のような潔い振る舞いを見せてくれる。
それこそが日本人にとって、大相撲の存在意義だと思うのです。


はっきり言えば古臭い美学です。
日本人ももっと自己主張をと言われて久しい。
グローバルだインターナショナルだの世においては、負け組必至の身上かもしれない。
しかしだからこそ尊く見える。

例えば、昨年1月場所千秋楽の里山対高安戦。
およそ6年ぶりに幕内に返り咲いた里山が、
幕内初の勝ち越しと技能賞をかけて戦った相撲。



大熱戦の末、マゲをつかんでの反則負けという非情な裁定で彼は敗れ去るのですが、
当時多くの同情が集まった一番でした。

ネット上は彼を気の毒がるツイートで溢れ、
翌日のスポーツ紙でも漫画家のやくみつるさんが「幻の技能賞」と嘆じ、
昨年末NHKの大相撲特番でも、ゲストの方が今年最も印象に残った取組として挙げていました。

されど、もしこのとき里山が往生際悪く、
「故意につかんだわけじゃねぇよう」だの、
「つかんでなくても高安は倒れてたろう?」などと、
行司木村晃之助や鏡山審判長に詰め寄っていたなら。
あれほどこの取組が話題になることはなかったでしょう。

悔しそうな表情を浮かべながら、文句ひとつ言わず花道を下がる里山。
彼が言葉にしないからこそ、観る側は思いを想像する余地がある。
想像するから心に残る。

あらゆることを言葉にして、万事薄っぺらになりゆく風潮の中。
力士だけは昔の日本人のままでいてくれる。

もちろん実際には、みな二十代中心の若者です。
裏では当然、しばしバラエティー番組で見せる素顔で分かるように、今どきのコたちです。
しかし一歩花道を出れば、古き良き日本人をしっかり演じてくれる。

それが国技を自称する大相撲の、力士一人一人の役割だと、私は思います。
言葉にこそしなくとも、日本人の多くが、少なくとも相撲好きの多くがお相撲さんに期待するのは、
そうした在り方でしょう。

今回の白鵬の発言は、その役割をトップ自らが放棄するものだった。
だからこそバッシングに至ったわけです。

次回、もう少し続きを。

プロフィール

うぃぬっ

Author:うぃぬっ
相撲の好きな犬。新潟県在住。近眼。千代の富士の時代に相撲を見始め、若貴時代はヒネくれていたのであまり見ず、朝青龍のときにまた見始めて現在に至る。

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